こんにちはペタスです!
みなさんの野球ライフはどうですか⁇
ぼくはやはりなかなか野球ができていません(´⊙ω⊙`) 忙しすぎだってマジで汗!!!!
来月は社会人野球の重要な大会があるのでぜひ参加したいと思っています!!(怪我しそうで怖いわ汗)
さてみなさん野球やソフトボールで汗を流されてると思いますが、今回は『高校野球』についてお話しします。
高校野球といえば待ちに待った年に一度の夏の祭典甲子園の地区予選大会も始まり気持ちも高ぶりますね!!!!
毎年心待ちにしているファンも多いのでは?
今回は少しマニアックな高校野球の『監督』についての話題です! しかも長きにわたり高校野球に携わり多くの選手を指導してきた、ある高校の監督と僕のお話し。
ついでに僕が高校野球を始めるきっかけや、高校野球を通し投手としてどのように変わったのかについてもお話ししてみたいと思います。
是非お楽しみください。
はじめに
まず今回なぜ高校野球の監督について話したいかと思ったかというと、僕の恩師である人物が紹介せずにはいられないすごい人物だからなのです。
そして僕の高校野球での投手の経験もみなさんに紹介したいと思いました。
僕が高校時代に野球を教わって感じたことやその監督の今も含めて記事として残しておきたい。
自分の記憶にも形として残り、みなさんにも紹介できるこのペタス工房で記事を書いてみようと思ったのです。
本日紹介する僕の恩師は、地元の高校を指導しこの道35年を超える高校野球に尽力された指導者の方です。
過去甲子園に出場しましたが近年は全国の晴れ舞台からは遠ざかっています。
僕と恩師との出会い
まず僕と監督の出会いですが、中学校三年生の時進路に悩む僕の元に地元の高校の監督が現れます。
僕の母校はかなり前ですが甲子園に出場経験のあるいわゆる『古豪』と呼ばれる高校でした。
そこで長きにわたり指揮を取ってきたのが今回紹介する僕の恩師に当たる方です。
その監督が自ら中学校に来てくださいました。
『うちに来ないか⁇』
僕の中学校の野球部の監督は僕が入学することになる高校のOBでした。
その繋がりもありぜひ選手にうちを勧めてほしいというやりとりはあったのだと思います。
そして僕の高校の恩師は僕を選んでくれたのです。
正直なぜ?と思いました。
というのも僕の中学校の野球部は県内でも屈指の実力があるチームでした。
当時エースのチームメイトは中学を卒業後特待生として強豪高校に進学し甲子園に出場します。
センターを守っていたチームメイトは高校ではソフトボール部に所属しインターハイ2連覇に貢献した選手です。
そんな中僕はというと2番手のピッチャーとしてエースを温存したい時などに登板するエースに隠れた誰も知らない存在なのでした。
なぜか監督はそんな僕に声をかけてくれたのです。
大変失礼なのですが、最初にお会いした時は『優しそうなおじいちゃん』という印象でした。
大変、申し訳ありません。。。
野球はしない!!謎の決意から入学するまで
しかし、中学校の野球を引退した僕は少しグレてしまいます。
もともと控え投手に甘んじていた僕は高校では野球はしないと謎の意思表明をするのです。
僕の実力なんかじゃ野球を続けてもたかがしれてると思っていました。
担任の先生は困惑。
母親も困惑。
野球部の仲間も困惑。
監督が誘いに来てくれた後にまた僕に会いに来てくれた当時の高校の野球部顧問の先生も困惑というまさに問題児代表みたいな生徒でした汗汗汗(僕はこの時会いに来てくれた顧問の先生に、野球はしないという意思を伝えてしまったのです汗)
顧問の先生、その節は大変・・大変!!失礼いたしました。
申し訳ありませんでした(土下座三回)
しかし僕はまわりの説得を受け誘いをいただいた高校に入学するのでした。
今思えばこの選択は自分の人生に大きな影響を与えてくれました。
ここで母校に入学してなかったらどんな人生になっていたのだろうかと思うと少しゾッとします。
高校に入学してから野球部に入部するまで
しかし高校に入学してからも、なぜか僕は野球部のグランドに近づこうとはしませんでした。
どうしても野球がしたくなかったのです。
放課後は家に帰ってゴロゴロしたい。
休みの日は友達と遊びに行きたい。
僕は高校生活をのんびりと過ごしたいとここでも謎の決意を固めていたのです。
しかしある日の放課後いつものようにそそくさとグランド沿いの帰宅ルートを通る際、野球部の先輩達が僕の前に立ちふさがります。
先輩『お前いい加減にしろ!』
僕『え?』
先輩『グランドに来い、監督が呼んでる』
僕『ええええ、、、、、はぁ、、、しょうがないなぁ(行くだけ行ってみるか)』
確かそんなやりとりがあり2回目の監督とのご対面になります。
監督の一言により入ってしまったスイッチ
はっきり鮮明に覚えています。
高校野球に打ち込むきっかけになったこの日のこのを。
僕は監督に2回目の対面を果たしすぐにこう言われます。
『○○君のことは中学校の試合をよく見に行ってたからどんな選手か知ってるよ』
『はぁ。。。』
(どうせ見てたの僕じゃなくてエースのことだろ!)
『ボールを投げてみなさい。好きなようにいいから』
え?急に???と思いながらも僕は軽いウォーミングアップをした後に久しぶりにボールを握り先輩に受けてもらうことになりました。
そして監督から一言・・・
『君はトップクラスの投手になる。明日からユニフォームを着て来なさい。』
『???????( ^)o(^:汗汗汗』
という感じでした。
なんだか漫画のような話ですがほんとにこんなやりとりの後になんだか吹っ切れたように高校野球にのめり込んでいきました。
僕がトップクラスの投手に? ずっと投手としてエースの影に隠れていた僕にとってその言葉はあまりにも衝撃的でした。
そしてグランドでユニフォーム姿の恩師と対面してその迫力に圧倒されてしまいました。
とにかくオーラがすごい。
それまで何気なく素通りして帰宅してた僕は母校の練習風景にも圧倒されてしまいます。
練習にも中学時代とは比べ物にならない迫力を感じました。
(これが高校野球か)
『は、はい!』
正直、嬉しい気持ちがありました。
この監督がトップクラスの投手になると言ってくれたらほんとになれるんじゃないかと瞬時に感じたのを覚えています。
早速次の日から言われた通り放課後はユニフォームに袖を通し練習に向かう日々が続きました。
監督は投手を指導するスペシャリストだった
僕は1年生の夏の大会で初戦から先発として登板することになるのですが、入学して練習を始めてすぐに投手として練習をしていたわけではありません。
最初は徹底的に走り込みや体幹トレーニング、基礎練習をやり込みます。
もちろん監督はマンツーマンのような形でそれぞれのトレーニングが後々投手にどのように役に立つのか、なぜ必要なのかをずっと解きながら指導をしてくれました。
そして徐々に体を作り投球練習に入っていきます。 僕はオーバー気味に上から腕を振り下ろすようなスタイルだったのですが、監督はこう言いました。
『○○はもともと横回転の体の使い方をしている。今後はサイドスローにしなさい』
エーーーーーー!!!!
そうなの????
という感じでしたがこれが面白いように体にハマります。
サイドスローの投げやすいこと。
そして監督が僕に『こういう風な感じで投げるんだ!』という動きを見せることがあったのですが、それはまさにサイドスローのお手本のようになめらかでしなやかでした(恐ろしいほどフォームがキレイ)そして分かりやすすぎる!
そこからは監督にマンツーマン指導をされながらサイドハンドの投げ方を徹底的に体に染み込ませていきました。
当時から練習中にライバルでもある他高校の監督がグランドに来ては僕たちの監督の指導を視察していました。
特にブルペンでの投手の指導方法には目を凝らすように。
(僕のすごいボールもチェックしてたのかな?★)
※僕の卒業後も母校のエースナンバーをつけた投手は毎年夏の大会で注目選手として活躍しています。
僕の恩師の指導は他の高校の監督達が勉強に来るほどレベルが高かったのです。
その指導でどう変わったのか
僕が高校に入学しての初の公式戦登板は1年生の夏の大会。
もちろん球場の電光掲示板には球速も表示されます。
中学校のころに投手をしていた僕の球速は、測ったことはありませんがとても遅かったのです。
ところが1年生の頃に記録したのは確か123キロ。
この時点でおそらく中学生の頃よりもかなりスピードは上がっていたのではないでしょうか。
これは監督に叩き込まれたサイドスローのフォームが固まりつつあったのと、入部より行ってきた投手に有効なトレーニングがもたらしたものでした。
力なんてものは最低限あればいい。
体の使い方と力の抜き方が重要。
監督はよくこのように話してくれました。
現にブルペンではよく全力投球のフォームでリリースの際だけ緩く投げるといった体から力を抜くトレーニングをやり込んだ記憶があります。
サイドスローの生命線でもあるスライダーに関しても、力を入れては曲がるものも曲がらない。
と、とにかく投手における脱力の重要性をよく言われていました(力を抜いて投げるスライダーが面白いようにグネグネと曲がり始めます)
1年生の夏の大会を2回戦で終えた後(2回戦でその年甲子園に出場する高校に近差で負ける)新チームになり僕はエースとしてチームの中心に立ちます。
段階を踏むように僕は2年生になってから新しい球種も覚えていきます。
牽制球、配球なども2年生の新チームより本格的に指導され始めました。
そして僕の投手としての実力はまさに監督が言った『トップクラス』に近づいていくこととなりました(自分目線で考えて笑)
僕の球速は2年生の夏にはMAX138キロにまでアップしていました。
これは間違いなく監督が僕に投手としての技術と体力を叩き込んでくれたから。
(オーバースローからサイドスローに変えて球速が15キロ上がるってあんまりないケースじゃないですか??)
球種はストレート、スライダー、カーブ、チェンジアップ、シュートがありました。
1つ1つの球種もやはり監督が事細かにレクチャーしてくれました。
球種ごとの握り方に関しては基本的な握りはこれだから、後は自分の感覚で少しズラしながら合わせていけばいい。そう教わりました。
そして教えられたことは面白いようにハマるのです。
監督の指導は型にはめ込みすぎず、基本的な事を決めたら後は自分で微調整をさせる。
といった実に選手目線な指導方法でした。
その後の高校野球生活
僕は着々と力をつけていき、強豪校にも負けない!!という自信をつけました。
しかし、投手人生は突然終わってしまいました。
当時僕は監督から肘や肩、腰に痛みがあるときは早めに言いなさいとよく言われていました。
しかし、僕は腕が上がらなくなるまでそのことを隠しずっと痛みに耐えながらピッチャーを続けていきました。
はじめは良かったのですが次第にストライクは取れなくなり腕も振れなくなりました。
監督に打ち明けた時にはすでに手遅れの状態でした。
今思えばこれは僕が監督の教えを破ったせいだと感じています。
でもどうしてもあの時は打ち明けることができませんでした。 痛いと言ったら練習ができなくなる。自分の居場所がなくなる。
そのプレッシャーの中で高校野球をしていました。
138キロまで伸びた球速は入学時と同じくらいまで落ちていました。
僕は3年生の春には完全に投手から外れ、最後の夏は二塁手として初戦敗退を喫しました。
卒業後に高校野球時代の恩師と話して思うこと
僕はたまに母校の練習や試合を見にいきます。
そしていつでも暖かく迎えてくれます。
監督は包み隠さず今のチームの事や僕たちに指導していた当時の事を話してくれ、OBである僕の話もじっくり聞いてくれます。
『〇〇のことは最初は嫌いだった』
!!!!!(+_+)汗
『でもすごい才能を見逃すわけにはいかなかった』
!!!!!(*’▽’)嬉
そんな会話をしながら貴重な練習時間を割き、いつも僕に語りかけてくれる監督がとても大好きです。
そして練習に行くたびにいつもスポーツ飲料や白米、プロテインなど差し入れらしき者が大量に置いてあります。
監督曰く、歴代のOB達がよく持ってきてくれるそう。
僕も含め監督に関わるすべての人がその人間性に感銘を受けているのだと思います。
試合に行けば歴代OBからその保護者の方まで実にたくさんの方たちが応援に駆けつけ母校の選手たちの雄姿を見守っています。
もちろん僕もその一人です。
仕事で疲れ果てている僕もグランドで監督と話した後は、『仕事頑張ろう!!』を超えて『頑張って生きて行こう!!』と心の底の方から洗浄されて帰宅します。
どうやら僕は相当疲れている時に監督に会いに行っているみたいです(笑)
そしてなによりいつも感じるのは現役の球児たちを見守るその目が当時と何も変わらず輝き続けていること。
そんな監督をみていると自然と背筋がピッと伸びてきます。
さいごに
今回は僕が高校に入学し恩師と出会ったお話でした。
みなさんが高校時代に出会った監督はどのような人でしたか?
僕が高校で出会った監督はまさに人生の恩師と呼ぶにふさわしい素晴らしい方です。
これからも母校の野球部を応援し続けたいと思います。
さいごのさいごに、いつものようにグランドに行った際監督が話してくれた一言が胸に突き刺さりましたのでここで紹介しておきます。
この夏、みなさんが汗を流した母校の試合を見に行ってみてはいかがですか?
きっとなにか心に響くものがありますよ。
では、良い野球ライフをお過ごしください( ^)o(^ )
ありがとうございました。